読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画「沈黙 -サイレンス-」

余り歴史に明るい方ではないが衝撃的な映画でした。映画を見ていて知識が足りなかった所をまとめる。

 

・何故禁教令が科されたのか

禁教令 - Wikipedia

バテレン追放令 - Wikipedia

秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。

  1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
  2. キリスト教徒が神道仏教を迫害をしたため。
  3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
  4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。

 

 

為政者の立場になって考える「禁教令」の授業 | TOSSランド

キリスト教が、当時ヨーロッパ列強諸国の植民地主義に利用されていた。日本の為政者がそのことに気付き、貿易での利益を天秤にかけてでも、イエズス会系のキリスト教の危険性を理解していたことで、日本が植民地にされずに済んだ側面がある。

 

映画内で気になったシーンで、通辞が「宣教師は日本人の文化・慣習を軽蔑している」と宣教師に語っていた。一般的に布教という行為は文明レベルの劣るものに対し行われる。まず和平と、外部のものや仲間同士で殺し合うのをやめるよう求めたらしい。知識や学問を伝えるという良い面もあったが、それらは専ら征服に貢献していたという(野蛮人のままでは征服も容易でないし、そのまま奴隷等の労働力として得ることができる為)。

ちなみに中国でも同じようにキリスト弾圧の動きもあった。中国のキリスト教 - Wikipedia

 

・踏み絵をできなかった理由は何か

セバスチャン・ロドリゴが五島の人々の偶像崇拝を危惧していた。五島のキリシタンらは宣教師の数珠まで欲しがるほどだ。そう考えると踏み絵ができなかったのも無理はないのかもしれない。しかし何故ロドリゴとフランシス・ガルペの二人はそれを簡単に出来なかったのか。神は御心に宿るというなら踏めば良いはず。

 

ある見方として、ここに描かれているのは「教理としてのキリスト教」と「実践としてのキリスト教」の相克(そうこく)である。カトリックでは特にそうだが、古代教会以来、「殉教」はクリスチャンにとって最高の美徳とされてきた。イエスの弟子たちもその後を受けた使徒教父たちも、最後はキリストに倣って自分も迫害の中で命を奪われることをある種「最高の名誉」と受け止めていた。
そういった教義が金科玉条となり、日本にもキリスト教伝来当初から教えられてきていた。しかし、断っておきたいのは、17世紀ヨーロッパのカトリック上層部に、そのような「殉教」を遂げた者は皆無だったということである。(省略)
加えて、切支丹たちはこの苦しみに耐えて殉教するなら、たちどころに天国へ行けると信じていた。だがこれはカトリック教義からすると誤りである。そんなにすんなりと天国へ行けるのは、いわゆる「聖人」と呼ばれるごく一部の者であり、ほとんどの凡人は煉獄でその魂の汚れを焼き尽くされなければ天国へは入れないのだ。

教理的なキリスト教を否定し、実践を優先するとき、「教義を破る」すなわち「棄教する」ことが求められるようになる。すると逆説的になるが、教え込まれた教義を捨てることこそ、(キリスト教ではなく)「キリストの教え」を真に実践することになる。愛について説くことではなく、愛を実践するとき、説教や概念を伝達することは無意味となる。
最後に棄教した主人公がキチジローに赦(ゆる)しを与える。それは本来カトリック教会に叙任された者のみが与えることのできる「秘跡」である。しかし、物語において、真に赦しを与えられたのは、皮肉なことに彼が司祭でなくなった後のことだったのである。
そして、有名な声なき声が主人公に届けられる。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの地に来たのだから」。彼の中に1つの解釈(本人にとっての真実)が開示される。「神は沈黙していたのではない。私たちと共に苦しんでいたのだ」ということである。
そういう意味で、主人公は「宣教師」という肩書きを捨て去る(棄教する)ことで、真にキリストの福音を伝える、否、福音を生きる者となることができたのである。

 

映画「沈黙」はクリスチャンにとってどんな意味を持つのか : 文化 : クリスチャントゥデイ

 

映画内でキリシタンの描写は海浜部の虐げられた貧しい人々だった。都市部ではいなかったのかな?既に処刑されたか。それとも禁教令の中で追いやられたからそうなったのか。映画を観た限りだと都市部で生活していた者には根付かなそうだと感じた。神に祈るのは弱者・貧しい人達、一貫していた。

 

・キチジローの行動原理

遠藤周作はキチジローを自らの分身として、「卑怯にして弱虫ゆえに踏絵を踏み、それなのに神を捨てきれぬ男」と述べている。ロドリゴを裏切りながらも幾度も付きまとい、その度に許しを乞う、映画の中で一番理解ができなかった。背教者となったロドリゴからお礼を言われるシーン、あれはどういう意味があったのだろう。最後に十字架を身につけていた事がバレて、処刑されたシーンは殉教とも捉える事ができる(調べるとあのシーンは、踏み絵を乗り越え自らの内側に神を信じられるようになったロドリゴとの対比で、「転び」と信心戻しを繰り返し踏み絵をしつつも懐中に信心の「形」としてのロザリオを捨てることができなかったキチジローの弱さの描写という感想があった)。キチジローが強い人間だという感想もあった。

 

 

 

解釈や解説サイトを漁るとこんなのも見つけた。

kousyou.cc