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・桶の中の脳

「桶の中の脳」として知られている哲学的な思考実験がある。想像上、脳を身体から切り離し、栄養剤を入れた容器で生きた状態を維持し、頭蓋骨の中に収まっていれば受けるはずの刺激を、そっくりそのままの仕方で、いまぶらぶらしている神経に加えるというものだ。このような脳が正常な心的経験をするだろうと考えるものもいる。

 

 これに対するアントニオ・R・ダマシオの回答。

「私はこのような脳が正常な心をもつとは思わない。」

自己という生物学的状態を生じるには、多数の脳システムのみならず、多数の身体システムが全面的に機能していなければならない。脊髄損傷患者は、脳と身体の往来が部分的にブロックされていると心の状態に変化が生じる。

身体がない場合、それから来る刺激によってなされていたはずの身体状態の誘発や調整は停止し、結果として生きているという感覚の基盤が形成されない。

「もし末端神経レベルでのインプット信号を形成することができれば、その『桶の中の脳』も正常な心を持つのではないか」という議論もあるかもしれない。

これは確かに何かしらかの心を持つかも知れないが、それは結局「身体型のインプット」のために身体の代用物を作り上げることに他ならない、とのこと。

 

 

 

 

 

 

・硬貨

テレビを観ていたら本郷奏多が出ていた。彼は潔癖症らしく「誰が触ったかわからないものに触りたくない。例えば電車のつり革だったり、硬貨なんかも」と言っていた。

それを聞いて神社での賽銭の投げ方について思い出した。信仰と崇拝の対象であるはずの神様に向かって、小銭を投げ入れるのは、無礼なのではないか、という疑問。

調べると、硬貨には、人々の厄災や罪穢れをよく吸収する装置、としての意味があるらしい。例えばトレビの泉や綺麗な池に小銭が投げ入れられるのは、一種の厄払い的な意味合いがある訳だ。

元来、神社は神聖で霊験豊かな神様が鎮座しておられる場、というよりも厄災や罪穢れを祓い清める禊祓いの場として人々には機能してきたらしい。だから無礼どうこうはあまり意識されず、今日でも賽銭は投げられる、という話